どこでもいいから吐き出す所が欲しかった


コーヒーを飲んでいると電話がかかってきた。学生の頃ひどい別れ方をした男からだった。時計は8時10分を差していた。立ち上がって窓のブラインドをあげると、オフィスビルが窮屈そうに並んでいた。

着信音が止まった。大通りの向かい側のビルに雲ひとつない青空が映っている。私は掛け直すことにした。



しばらくぶりだねという声がスマホから聞こえた。キリコ。私が反射的にそのように答えると、彼は笑った。
キリコというのは我々が会うときに使う偽名だった。彼はちょっと名の知れた政治家の息子だった。我々は未成年ながらキリコとして飲んだくれ、時には旅行もした。キリコは享楽的だった。授業もサークルもそこそこに、馬鹿げた机上論を肴に飲んだくれていた。
もちろんそんな日々は長くは続かなかった。初めて会ってからちょうど4ヶ月目、私は彼に連絡できなくなった。


「つながらないかと思ったよ。あのときみたいに」とキリコは責めるように言った。
「さすがに私も大人になったの。ほめて」
「はいはい、すごいよ尊敬する。だれかから聞いたけど新聞社にいるんだってね。どう、仕事は。忙しい?」
「おかげさまで。で、ご用件は」
キリコは一呼吸おいた。
「今日、仕事が終わったらいつもの店に来れるかな」
「予約は?」
「キリコで取った」


連日、彼の父の死とそれに伴う後釜争いが世間に取り沙汰されている。まだ年若くしかも道楽が過ぎる彼がそこに参戦できる筈もない。さらに悪いことに彼の後ろ盾は嫌われ者の父のみで。政界の古狸どもは何だかんだと理由をつけて、おそらくは彼の素行の悪さをダシに排除しようとするだろう。私がキリコの誘いを断るべきなのは明白だった。


「一緒にいこ」
耳元でキリコの甘ったるくて低い声がした。私は思わず電話を切った。切ってから頭を抱えた。絶望した。私が何をしたと言うのだろう。私がキリコから逃げられないことは決まっている。



大学一年生の秋、キリコは19歳で、新宿の東に住んでいた。いつもの店は彼の家のすぐ近くにあった。11年ぶりにもかかわらず、足はその場所を忘れていなかった。

しかし今は春だった。人気のない路地に夜と花の匂いが立ちこめていた。私は混乱した。どうやら頭上で桜が咲いている。
ふらふらと地下に続く階段を下りると、見覚えのある金属製の扉が現れた。その向こうには鏡張りの狭い通路が続いている。砂利が敷かれ、青竹が生えている。突き当たりを左に曲がるとガラス張りのドアが開き、ボーイが私を出迎えた。テーブル席で身なりのいい老紳士が若い女と静かに話していた。
今考えても学生には身分不相応なバーだった。


キリコはカウンターの隅でウォッカを飲んでいた。彼はやはりスーツ姿で、ワックスでベタベタに髪を固めていた。いつまで人並みの毛量を確保できるか見ものだ、なんて馬鹿みたいなことを考えないと正気を保てそうにない。
彼は物思いに耽っているようだった。ナイフで切り出したような端正な横顔が暗い店内に浮き上がった。


「お待たせしました」と私が言うと、彼はゆっくりと顔をこちらに向けた。
「急に呼び出しておいて、幽霊でも見たような顔しないでよ」
キリコの手が肩に触れた、と思ったら、力なく落ちた。
「妬けるな」
「何に対して?」
「俺の知らない君の7年に。前よりもっと綺麗になった」
「そちらこそ口の上手さに磨きがかかったようで」
私はバーテンにハイボールを2つ注文した。


「相変わらずつれないな。たまには黙って口説かれてみてよ」
「嫌だよ。だって君、言ってることと考えてること全然違うじゃない」
するとキリコは満足そうに笑った。
「やっぱりいいよね君は。俺のことなんでそんなに分かってるの? 俺より知ってるんじゃない?」
「記者なので」と私が言ったところでジョッキが2つ出てきた。


キリコは「杯を乾かすと書いて乾杯」などとのたまいながらウォッカを空にして、次なるハイボールに手を伸ばした。
「それじゃあ、再会を祝して。かんぱい」
ガラスのぶつかる清潔な音が響いた。


君とは寝ないことにしてたんだ、とキリコは思い出したように言った。店を出たところだった。階段を登った先には彼が待っていて、その後ろに桜が咲いている。生暖かい風が頰を撫でるのがなんともこそばゆい。久しぶりに酔っていた。


「確かに、家に行ったことないような。旅行先でも飲み明かすかトランプするかだったよね」と私は答えた。呂律はもう回ってなかった。
「そんな俺のこと、どう思ってた?」
階段の最後の一段に転びそうになると、すかさず彼の手が伸びてきた。
「うまく定義ができなかったよ。恋人でもなく、友達でもなく……かと言って他人ではない、みたいな」
「恋人以上家族未満」と彼は言った。私はうまく肯定できなかった。


「まだこの辺りに住んでるの?」と私が聞くと、彼は馬鹿にしたような顔をした。
「30にもなって4畳半のアパートに一人暮らししてると思う?」
それを聞いて、彼が既婚者であることを悟った。考えてみれば、彼のような育ちで容姿で性格で配偶者がいない方が不自然だ。不自然だ。そう、不自然。


「どんな顔してんだよ」
キリコが私をじっと眺めていた。なんとなく、彼の笑顔が見たいような気がした。普段からあまり笑わない人だが、何気ないやりとりに、くしゃりと顔を綻ばせることがあった。彼も少年なのだと思わせるような。その瞬間が胸に迫ってきて、私は泣いた。


彼は驚いたように足を止めると、正面から私の顔を覗き込むようにした。私は酔っていた。彼の首に両腕を回していた。どこか遠い場所でハンドバックが落ちた。彼は私を強く抱き寄せた。
「ごめん」
キリコには心臓がないようだった。私と彼の脈動が完全に同じなのかもしれなかった。キリコは融け合っていた。キリコは彼であり私だった。


気付くと空が白んでいた。
私はキリコの腕の上で眠っていた。音を立てないようにベッドから抜け出すと、昨日の服が丁寧に畳まれていた。私がやったのではなかった。振り向くと、キリコが穏やかな寝息を立てていた。その少年のようなあどけない顔にひどく胸が締め付けられた。


私と過ごすふとした瞬間、キリコの繊細な神経が休まることがあり、それが彼にとっては得難いものであるのには薄々気がついていた。彼の寝顔は私に起こされることを期待していた。この部屋も私の淹れたコーヒーの香りに満たされたがっていた。


それでも私は黙って帰らなければならなかった。



週刊誌に私とキリコが抱き合っている写真が載ったのはそれから1週間後のことだった。不倫という文字が紙面に大きく躍っている。キリコは政治家としての出鼻を挫かれる形となった。一方、私のデスクには、記事のコピーと数センチの札束が入った茶封筒が置かれている。


「先輩も悪い人ですねえ。元彼を売るなんて」
そう言って私の隣に座ったのは、後輩の川橋だった。すかさずマックを立ち上げて仕事を始めるのかと思いきや、川橋はツイッターとフェイスブックを同時に開いた。


「写真見ましたけど、なかなかいい男じゃないですか。ここは恩を売ってヨリを戻した方が良かったんじゃ」
「川橋。口を慎みなさい」
「だってあんなん演技じゃできないっしょ。女優でもあるまいし。まだ好きなんじゃないですか?」
「あの人はそういうのじゃない。裏切りでも復讐でもない。私たちの望みどおりの結果だよ」
すると川橋は宇宙人でも見るように私の顔を眺めた。


「私たちってどういうことですか」
「私の望みでも、彼の望みでもなく、私たちのものとしか言えない」
「うーん、分からないな」とぼそりと言って、川橋は再びウィンドウに目を戻した。
私は冷めたコーヒーを手に取った。8時10分。電話がかかってくる。
「もしもし」
やはりキリコの声だった。


「元気?」と私が間抜けを装うと、彼は怒ったようだった。
「とんでもない。朝起きたら君はいないし、週刊誌には追い回されるし、妻は半狂乱だ」
「ひどいものね。この世の終わりみたい」
「全く。君みたいだ」と彼はため息をついた。


「それで、今日のご用件は?」
「ほとぼりが冷めるまでしばらく日本を離れようと思う。君も一緒にどうかな」
さすがの私も耳を疑った。一緒に行ってどうすると言うのだろう?
「正気?」
「ちょっと嫌になるくらいにね。明日の夜11時、羽田発の香港行きのチケット、取ってあるから来いよ」
「待って、私にも都合ってものが」
「仕事のことなら心配ないよ。どうせ辞めることになるだろうから」
その瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。魔性の声。キリコはたまにそういうものを呼び出す。
おそるおそる電話を置くと、ぽんと肩を叩かれた。部長が笑顔で、その後ろに課長がおずおずと、ただ立っている。やられた、と思った。


その日は朝から雨が降っていた。桜の花びらをぺったりと排水溝にはりつけてゆく柔らかい雨だ。飛行場の会員制ラウンジに着いて一番に、キリコは「花びらがのってる」と私の頭をふわりとはらった。今日は珍しく、パーカーと細めのジーンズというラフな出で立ちだった。


「なんだか君、少し背が縮んだような」とキリコは言った。
「今日はヒールじゃないからね。旅行中は歩きづらいでしょ」
「旅行のつもりで来たのか」とキリコは口元をゆがめた。


キリコはローテーブルを挟んで真向かいのソファに腰掛けていた。その背後は一面ガラス張りで、青や緑の光に彩られた滑走路が広がっている。夜のせいで私の顔も映っていた。高級すぎるラウンジにひと気はなく、私はそこに迷い込んだ幽霊のようだった。


「よくも俺を売ってくれたね。君のせいであっという間に全部がパーだ」
「失うときはいつだって一度に全部だよ」と私の声がした。
「そう、君はよく分かってる。道連れだ」
キリコは飲みかけのワインを空けてしまった。
「よく分からないよ」
「何が?」とキリコは言った。
「復讐にしては生温いから。私はたしかに失業したけど、記者という仕事に未練はないし、扶養家族もいない。たとえ香港で死んでも誰も困らない」
私は真剣に答えたつもりだったが、キリコは面白そうに目を細めた。


「香港にて死す、ねえ。君、やっぱり大人になれてないよ。あいも変わらず死にたいから、俺と寝たの?」
その言葉は想定外のものではなかっただけに、私の胸をぷっすりと串刺しにした。
「ねえ、俺は君と一緒にいたいんだよ。昔みたいに。君はまた不幸になるだろう。それでもこの身勝手をやめるつもりはない。復讐だからね」
キリコの影がテーブルに落ちて私の足元まで伸びている。魔が差していた。


ビジネスクラスに乗るのは初めてだった。体をいっぱいに伸ばしてもいいし、好きな時に飲食だってできる。機体の後ろの方で人々がひしめき合っているのが馬鹿みたいだった。しかしビジネスでもないのにビジネスに乗る我々の方が馬鹿なのだろう。私はどこかに書くべき渡航目的を考えた。少なくとも観光ではない。


「逃避行?」と私がぼそりと言うと、右側に座る彼が振り向いた。
「ずいぶんとありきたりな言葉を使うんだな」
「私はありきたりな考えを持ったありきたりな人間にすぎないよ」
「何を言ってるんだか。君みたいな女の子はちょっといない」
「豊富な女性経験に誓って?」
「ああ。誓うね」とキリコはくしゃりと笑った。


「逃避行と言うと、君は何から逃げるの?」
「キリコ」と答えると、キリコはふうんと言った。
「じゃあ、逃げ切れたら一人で日本に帰っていいよ」
「いいの?」と私は少し面食らって言った。
「いいよ。きっと無理だろうからね」とキリコは私から目を逸らして言った。


「君はいつ日本に戻るつもり?」
キリコは答えなかった。いつもそうだ。私には何でも言挙げさせておきながら、自分に都合の悪いことはだんまりを決め込む。もしかしたら、私よりもキリコから逃げ出したいのは彼の方なのかもしれなかった。


飛行機の中で夢を見た。
私は3人がけのエコノミークラスの座席に座っていた。私は真ん中で、どういうわけか両側は空席だった。映画もなければ音楽もない。味のないオレンジジュースが狭いテーブルに置いてあるだけ。
退屈さに耐えかねて、席を立とうとした瞬間、両側に白い大きな塊が乗り込んできた。けたたましいサイレンが耳元で鳴った。白い塊は私を両側から押しつぶした。
よく見るとそこには目があり耳があり髪があった。その目はくし刺にされ、耳には桜の木が生え、髪は私の口の中で絡まった。堪え難い恐怖の中で私は絶叫した。


「由子」
遠いところで誰かが私の名前を呼んだ。大きな手が私の両肩を揺すぶった。その体温を感じるところから、緊張がほどけていくのが分かった。白い糸がぷつんと切れて、私は目が覚めた。


私の目の前にはキリコの顔があり、彼の手は私の肩を掴んでいた。遠巻きに若いCAが心配そうに私を見ていた。夢の方がよほど現実味があった。
「怖い夢でも見たの? 平気?」
キリコの目の奥に静かな独占欲が渦巻いていた。


私はそれと同じものを休日のアウトレットモールで見たことがあった。母親はブランド物でも漁っているらしく、父親が小さな子どもを抱っこしてあやしていた。陽だまりの中、何かを訴えようとする子どもの頰にそっと自らの頰をすり寄せる、父親のあの眼差し。母のいぬ間に発露する重たい感情。


「奥さんと子ども、どうやって置いてきたの」
私の声はすっかりかすれていた。由子という音の感じがそのあたりに漂っていた。
キリコは目を細めた。
「向こうから出ていったよ」


妻は完璧な人なのだとキリコは言った。出自も容姿も学歴も申し分なく、善良で誠実だが、人の欠陥に耐えられない。いわば温室育ちなのだった。後ろ盾を失い、私のような女と逢っているようなキリコに愛想をつかし、子どもを連れて実家に戻ってしまった。離婚も時間の問題だとキリコは言った。


「俺はあの人をすごく好きなんだけどね。価値観の違いばかりはどうしようもない」
はたして本当にそうなのだろうか、と私は白い塊を思い出した。むしろ愛情が深いのは彼らの方ではないのか。私は彼らに恨まれていると思った。


「それにしてもひどい顔色だよ。何か飲む?」とキリコは座席から身を起こした。私はその頰にそっと口付けた。彼は目を見開いたが、しばらくして瞼を閉じた。私はそこにもキスを落とした。
「君こそひとのこと言えないよ。私は十分寝たから君もひと眠りしなよ」


彼は自分の座席に深く座り直すと、長いため息をついた。
「君のそういうところ良くない。本当に良くない。俺が俺でいられなくなる」
「そう、キリコになるんだね」と私は言った。